二重の基準論と審査基準にじゅうのきじゅんろん
二重の基準論とは、精神的自由に対する制約の合憲性は、経済的自由に対する制約の合憲性よりも厳しい基準によって審査されるべきだとする考え方です。精神的自由が制約されると民主政の過程による回復が期待できないことと、裁判所が社会経済政策の当否を判断する能力に限界があることが根拠とされ、審査基準は厳格審査・中間審査・合理性の基準に分かれます。
学校で、生徒が意見を言う自由を先生が制限するのと、購買部の営業時間を制限するのとでは、後で生徒が「おかしい」と声を上げて正せるかどうかが違います。意見を言う自由が奪われれば、正す手段そのものが失われるからです。憲法の世界でも同じで、表現の自由のような精神的自由が制約されると、選挙や議論を通じて法律を改めさせる民主政の過程が働かなくなります。だから裁判所は精神的自由の制約を厳しく審査し、経済的自由の制約は立法府の判断を尊重して緩やかに審査します。

二重の基準論は、精神的自由と経済的自由で審査密度を変えます
同じ「公共の福祉」による制約でも、制約される権利の性質によって裁判所の審査の厳しさが変わります。積極的な社会経済政策による規制が許されるのは経済的自由についてであって、精神的自由について同じことはいえません。最大判昭和47年11月22日(小売市場事件)は、個人の経済活動の自由に関する限り、個人の精神的自由等に関する場合と異なって、社会経済政策の実施の一手段として合理的な規制措置を講ずることは憲法が予定し許容するところだとしています。精神的自由を積極的な政策目的で制約することは、原則として許されません。
- 厳格審査の基準目的がやむにやまれぬ利益であり、手段がそのために必要不可欠であることを要求する。精神的自由の内容規制など
- 中間審査の基準目的が重要であり、手段が目的と実質的な関連性をもつことを要求する。表現の時・場所・方法の規制や消極目的の経済規制など
- 合理性の基準目的が正当であり、手段が目的と合理的な関連性をもてば足りる。積極目的の経済規制では、著しく不合理であることが明白な場合に限り違憲とする明白性の原則まで緩められる
根拠は、民主政の過程による回復が期待できるかどうかにあります
二重の基準論の中心的な根拠は、精神的自由が民主政の過程そのものを支える点にあります。二重の基準論の根拠の一つは、精神的自由への制約では民主政の過程自体がゆがめられるから裁判所の積極的な審査が要請され、経済的自由への制約では民主的手続の中でされた立法者の判断の合理性を尊重すべきだ、という点にあります。表現の自由が失われると、その制約の不当を訴えて法律を改めさせる道まで閉ざされます。これに対し経済的自由の制約は、選挙と立法の過程を通じて是正する余地が残ります。裁判所が積極的に介入すべき場面を、この違いで説明します。民主的正統性をもたない裁判所が立法を覆すことへの疑問に対しても、この根拠は答えになります。民主政の過程が正常に働かなくなる場面でこそ、裁判所の出番だという説明です。

裁判所の判断能力の限界も、経済的自由の審査を緩める理由です
もう一つの根拠は、社会経済政策の当否を判断する資料と能力を裁判所がもたないことです。この発想が最も強く現れるのが明白性の原則です。最大判昭和62年4月22日(森林法共有林事件)が示した枠組みは、規制目的が公共の福祉に合致しないことが明らかであるか、手段の必要性・合理性に欠けることが明らかである場合に限って違憲とするもので、審査密度が最も低い形です。もっとも同判決は、共有林の分割請求を制限する規定について、この緩やかな枠組みを用いながら違憲の結論に至っています。明白性の原則を掲げれば必ず合憲になるわけではありません。
判例は、間接的・付随的制約に厳格な審査を及ぼしていません
二重の基準論を採るからといって、精神的自由に関わるすべての規制が厳格に審査されるわけではありません。最大判昭和49年11月6日(猿払事件)は、禁止の対象が表現そのものではなく公務員の政治的行為であることから、制約は意見表明そのものの制約ではなくそれに伴う間接的・付随的なものにすぎないとして、合理的関連性の基準で判断しました。判例が二重の基準論を採っているかはともかく、制約の態様を理由に審査密度を下げた例です。法廷で傍聴人がメモを取る筆記行為の自由についても、「様々な意見,知識,情報に接し,これを摂取することを補助するためにする筆記行為の自由は,憲法第 21 条第 1 項の規定によって直接保障されている表現の自由そのものとは異なるものであるから,その制限又は禁止には,表現の自由に制約を加える場合に一般に必要とされる厳格な基準が要求されるものではない」という肢(R2 問1 ウ)は正しいです。学説からは、公務員の政治的表現そのものを狙った規制ではないかという批判が強く向けられています。表現の内容に着目しない規制であっても、実際に制約される行為が表現であることに変わりはないからです。

経済的自由の内部でも、規制目的によって審査密度が分かれます
経済的自由の中でも、消極目的の規制と積極目的の規制で基準が分かれるとされてきました。最大判昭和47年11月22日(小売市場事件)は積極目的について明白性の原則を用い、最大判昭和50年4月30日(薬局距離制限事件)は消極目的について厳格な合理性の基準を用いています。「国が,積極的に,国民経済の健全な発達と国民生活の安定を期し,もって社会経済全体の均衡のとれた調和的発展を図る目的で,立法により,個人の経済活動に対し,一定の法的規制措置を講ずる場合には,裁判所は,立法府がその裁量権を逸脱し,当該措置が著しく不合理であることの明白である場合に限って,これを違憲とすることができる」という肢(R3 問2 イ)は正しいです。他方、職業の許可制は消極目的の場合に限って合憲になるわけではなく、「職業の許可制は,一般に,単なる職業活動の内容及び態様に対する規制を超えて,狭義における職業の選択の自由そのものに制約を課すもので,職業の自由に対する強力な制限であるから,それが社会政策ないしは経済政策上の積極的な目的のための措置ではなく,自由な職業活動が社会公共に対してもたらす弊害を防止するための消極的,警察的措置である場合に限って合憲となる」という肢(R3 問2 ア)は誤りです。もっとも、この二分論で割り切れない事例もあります。最判平成4年12月15日が酒類販売の免許制について挙げた目的は、小売商の保護ではなく酒税の適正かつ確実な賦課徴収という財政目的でした。

「公共の福祉」を一元的に理解すると、広い裁量論に流れる危険があります
審査基準を立てることの意味は、制約の許否を場当たり的な衡量から救い出すところにあります。人権相互間の矛盾・衝突の調節を図る実質的公平の原理として「公共の福祉」をとらえる見解は一元的内在制約説ですが、この説では人権を制約する根拠は人権にしかなく、22条と29条の「公共の福祉」は特段の意味をもたないことになります。したがって、これらの「公共の福祉」が国の経済的・社会的政策の意味に捉えられて広汎な裁量論に流れるという後段の批判は、この説には当たりません。この説に向けられる批判は、人権の範囲はそれほど広くなく、人権相互の調整だけで社会権の実現のための制約を説明しきれるのか、というものです。
最大判昭和50年4月30日(薬局距離制限事件)職業の自由に対する規制措置は、事情に応じた各種各様のものがありうるのであり、その規制措置が憲法二二条一項にいう公共の福祉のために要求されるものとして是認されるかどうかは、これを一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、規制の目的、必要性、内容、これによつて制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これらを比較考量したうえで慎重に決定されなければならない。
試験ではこう問われる
- 二重の基準論は精神的自由の制約を厳格に、経済的自由の制約を緩やかに審査する考え方で、民主政の過程による回復の可否と裁判所の判断能力を根拠とする
- 積極的な社会経済政策の目的による規制は、著しく不合理であることが明白な場合に限って違憲とされる(最大判昭和47年11月22日・小売市場事件。R3 問2 イ ○)
- 職業の許可制は、消極的・警察的措置である場合に限って合憲となるわけではない(R3 問2 ア ×)
- 精神的自由に関わる規制でも、間接的・付随的な制約には合理的関連性の基準が用いられた(最大判昭和49年11月6日・猿払事件)
- 傍聴人の筆記行為の自由の制限には、表現の自由の制約に一般に必要とされる厳格な基準は要求されない(R2 問1 ウ ○)
- 酒類販売業の免許制は、酒税の適正かつ確実な賦課徴収という財政目的の規制として合憲とされた(最判平成4年12月15日)

