抽象的事実の錯誤(構成要件の重なり合い)ちゅうしょうてきじじつのさくご
抽象的事実の錯誤とは、行為者が認識した事実と現実に発生した事実が、異なる構成要件にまたがって食い違うことです。この場合、故意は原則として認められませんが、二つの罪の構成要件の重なり合いが実質的に認められる限度で、軽い罪の故意犯が成立します。
落とし物だと思って拾って持ち帰った財布が、実は持ち主がすぐそばのベンチに置いていただけの物だったとします。客観的には他人の占有する物を盗んだことになりますが、本人は落とし物を自分の物にするつもりしかありませんでした。知らなかった重い罪の責任まで負わせるのは行きすぎですが、何の罪にもならないとするのも不当です。そこで刑法は、認識した罪と実現した罪が重なり合う範囲で、軽い方の罪の故意犯を認めることにしています。

抽象的事実の錯誤では、構成要件が実質的に重なり合う限度で軽い罪の故意犯が成立します
行為者が認識した事実と現実に発生した事実が、異なる構成要件にまたがって食い違う場合を、抽象的事実の錯誤といいます。故意は構成要件に該当する事実の認識ですから、認識していない罪の故意は原則として認められません。刑法38条2項も、重い罪に当たる事実を知らなかった者をその重い罪によって処断することはできないと定めています。もっとも、認識した罪と実現した罪の構成要件が実質的に重なり合っているときは、その重なり合う限度で故意が認められます。重なり合いがあるかどうかは、保護法益と行為態様が共通しているかによって判断されます。
- 軽い罪を犯す意思で、重い罪の事実を実現した場合重い罪は成立せず、重なり合う限度で軽い罪が成立します
- 重い罪を犯す意思で、軽い罪の事実を実現した場合重なり合う限度で、実現した軽い罪が成立します
- 法定刑が同じ罪の間で錯誤があった場合構成要件が実質的に全く重なり合うときは、実際に実現した罪が成立します
- 構成要件が重なり合わない場合発生した事実について故意犯は成立しません
軽い罪を犯す意思で重い罪の事実を実現したときは、軽い罪が成立します
最決昭和61年6月9日は、麻薬であるコカインだと誤認して覚醒剤を所持した事案で、当時は覚醒剤所持罪の方が刑が重かったところ、両罪の構成要件は軽い麻薬所持罪の限度において実質的に重なり合っているとしました。そのうえで、重い覚醒剤所持罪の故意を欠くので同罪は成立せず、軽い麻薬所持罪が成立するとしました。重い罪の成立を認めて刑だけを軽くするのではなく、成立する罪そのものが軽い罪になります。同意がないのにあると誤信して人を殺害した場合も同じ構造です。同意がないのにあると誤信して、人の首をひもで絞めて殺害した場合には、同意殺人罪が成立します。客観的には殺人罪に当たる行為ですが、行為者には同意殺人罪の故意しかなく、両罪は同意殺人罪の限度で重なり合うからです。方法の錯誤と組み合わさった事例でも同じです。甲が同意殺人の故意でAに向けて発砲し、射殺されることに同意していなかったBに命中して死亡させた場合も、Bに対する殺人既遂罪は成立しません。甲には同意殺人罪の故意しかないので、Bに対しても殺人既遂罪は成立せず、同意殺人既遂罪が成立するにとどまります。
法定刑が同じ罪の間の錯誤では、実際に実現した罪が成立します
最決昭和54年3月27日は、覚醒剤を輸入する意思で麻薬を輸入した事案で、両罪は目的物が覚醒剤か麻薬かの差異があるだけで、その余の構成要件要素は同一であり、法定刑も同一であるとしました。そして、両罪の構成要件は実質的に全く重なり合っているから、この錯誤は生じた結果である麻薬輸入罪の故意を阻却しないとして、麻薬輸入罪の成立を認めました。麻薬であるヘロインの粉末を覚醒剤と誤信して営利目的で輸入した場合、覚醒剤の営利目的輸入罪は成立しません。成立するのは、実際に輸入したヘロインの営利目的輸入罪だからです。客体が逆の場合も、実現した罪が成立します。「覚醒剤ではないが、麻薬である」と思って覚醒剤を日本に持ち込んだ場合も、両罪の法定刑が同じであれば、実現した覚醒剤の輸入罪が成立します。これに対し、覚醒剤かもしれないし麻薬かもしれないと思って持ち込んだ場合は、客体の認識に錯誤があるとして麻薬の輸入罪を成立させることにはなりません。覚醒剤かもしれないという認識がある以上、そもそも錯誤はなく、覚醒剤の輸入罪の故意が認められるからです。同じように、「Aは,覚醒剤を所持していたが,これについて,覚醒剤であるとは知らなかったものの,覚醒剤などの身体に有害で違法な薬物かもしれないが,それでも構わないと考えていた。この場合,Aには,覚醒剤所持罪の故意が認められる」という肢(R3 問24 ウ)は正しいです。

構成要件が重なり合わないときは、発生した事実について故意犯は成立しません
人を殺す意思で発砲したところ犬に当たった場合、殺人罪と器物損壊罪は保護法益も行為態様も共通しないので、構成要件は重なり合いません。この場合、法定的符合説からも具体的符合説からも、器物損壊罪の故意は認められません。重なり合う限度で軽い犯罪の故意を認める見解からも、弾丸が人に命中せずに犬に当たって死なせた場合、器物損壊罪の成立は否定されます。過失による器物損壊を処罰する規定はないので、犬を死なせた点は不可罰になります。死体だと思って生きている人を遺棄した場合も、重なり合いは認められません。死体遺棄罪の保護法益は死者に対する敬虔感情であり、遺棄罪の保護法益は生命・身体の安全であって、両者が異なるからです。生きている人を既に死亡していると思って山中に遺棄した場合、死体遺棄罪は成立しません。客体が死体でない以上、死体遺棄罪の客観面を欠き、遺棄罪については故意を欠きます。同じ理由で、重なり合う限度で軽い犯罪の故意を認める見解からも、まだ生きている人を既に死亡したものと思って遺棄した場合に、死体遺棄罪の成立を肯定することはできません。

客観的にどの罪の構成要件にも当たらないときは、重い罪の認識があっても故意犯は成立しません
他人の物だと思って持ち去った物が、実際にはだれの所有にも属さない無主物だった場合は、客観的に実現した犯罪がそもそもありません。遺失物等横領罪の客体は「占有を離れた他人の物」であり、無主物は客体に当たらないからです。他人の所有物と認識して持ち去った自転車が実際には無主物だった場合、遺失物等横領罪は成立しません。窃盗罪を犯す意思があっても、軽い罪の客観的な構成要件該当性が欠ける以上、重なり合いを論じる前提がありません。
刑法 第38条第2項重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。
試験ではこう問われる
- 覚醒剤とは知らなくても、身体に有害で違法な薬物かもしれないと認識していれば、覚醒剤所持罪の故意が認められる(R3 問24 ウ ○)
- 軽い罪を犯す意思で重い罪の事実を実現したときは、重い罪は成立せず、重なり合う限度で軽い罪が成立する(最決昭和61年6月9日)
- 同意があると誤信して人を殺害したときは、同意殺人罪が成立する
- 法定刑が同じ覚醒剤輸入罪と麻薬輸入罪の間の錯誤では、実際に輸入した薬物の輸入罪が成立する(最決昭和54年3月27日)
- 人を鹿と誤信して撃ち重傷を負わせても、人を傷害する故意がないので傷害罪は成立しない(H27 問24 イ ×・出題当時)
- 死体だと思って生きている人を遺棄しても死体遺棄罪は成立せず、人を殺す意思で犬を死なせても器物損壊罪の故意は認められない
- 他人の物だと思って無主物を持ち去っても、遺失物等横領罪は成立しない

