不真正不作為犯(作為義務・作為の可能性と容易性)ふしんせいふさくいはん
不真正不作為犯とは、殺人罪や放火罪のように作為の形で定められている罪を、不作為によって実現する場合をいいます。結果の発生を防止すべき作為義務があり、その作為が可能かつ容易であったのに、これをしなかったときに、作為による実行行為と同視されます。
池で子どもが溺れているのを見て、通りがかりの人が何もせずに立ち去っても、その人が殺人罪に問われることはありません。しかし、その子の親が、助けられるのにわざと助けなかったとしたら、突き落としたのと変わらないと感じるはずです。何もしないことが処罰されるのは、その人が結果を防ぐべき立場にあった場合に限られます。何もしなかった人は無数にいるので、誰の不作為なら手を下したのと同じに扱えるのかを絞り込まなければ、処罰の範囲が際限なく広がってしまうからです。

不真正不作為犯は、作為の形で定められた罪を不作為で実現する場合で、処罰範囲を絞る必要があります
不作為犯には二種類があります。条文が不作為そのものを構成要件として定めているものを真正不作為犯といい、不退去罪(130条後段)や保護責任者不保護罪(218条後段)がその例です。作為の形で定められている罪を不作為で実現するものを不真正不作為犯といいます。真正不作為犯と不真正不作為犯の違いは、刑罰法規そのものが構成要件要素として明文で不作為を規定しているかどうかにあります。不作為とは何もしないことではなく、一定の作為をしないことをいいます。居住者から退去を求められた者にとってなすべき作為が「住居から退去すること」だとすると、その住居内に居座ることも、その住居内で財物を窃取することも、退去していない以上は不作為に当たります。不真正不作為犯は、条文に不作為が書かれていないので、どの不作為が処罰されるのかが条文からは分かりません。そこで、不作為が作為による実行行為と同視できる場合に限って成立を認めます。その要件が、作為義務と、作為の可能性・容易性です。作為義務を成立要件とすることで、結果の発生を回避し得る作為をしなかった複数の者の中から、不作為犯の主体となり得ない者を除外できます。
作為義務は法令の規定に基づくものに限られず、契約、先行行為、保護の引受け、排他的支配からも認められます
作為義務の根拠は一つではありません。親の監護義務のような法令、看護の契約、自分の行為で危険を生じさせたという先行行為のほか、被害者の保護を事実上引き受けたこと、結果の防止を期待できる者がほかにいないという排他的支配が考慮されます。作為義務は、法律上の規定に基づくものに限られません。逆に、法令上の義務や先行行為があれば直ちに作為義務が認められるわけでもありません。自動車で人をはねた運転者には道路交通法72条1項の救護義務がありますが、被害者を現場に放置して立ち去っただけのひき逃げについて、実務は不作為による殺人罪を認めていません。被害者をいったん自動車に乗せて運び、その後に放置したというように、保護の引受けや排他的支配が加わった場合に作為義務が認められています。作為義務を認めるには結果発生の原因となる先行行為を行えば足りるとする見解に対しては、人に傷害を与えた者がその後殺意をもって放置しただけで不作為による殺人罪になり、成立する範囲が広くなり過ぎるとの批判が向けられます。この見解に対して成立範囲が「狭くなり過ぎる」という批判は成り立ちません。
- 法令親の子に対する監護義務(民法820条)など
- 契約・事務管理看護の契約、子を預かる契約など
- 先行行為自分の行為で結果発生の危険を生じさせたこと。過失で出火させた場合の消火義務など
- 保護の引受け被害者の保護を事実上引き受けたこと。はねた被害者を自動車に乗せたことなど
- 排他的支配結果の防止を期待できる者がほかにいないこと

シャクティ治療事件は、先行行為についての帰責性と保護の引受けを根拠に、不作為による殺人罪を認めました
最決平成17年7月4日(シャクティ治療事件)は、独自の治療を施すと称する者が、入院中の重篤な患者を親族に指示して病院から運び出させ、ホテルで必要な医療措置を受けさせないまま放置して死亡させた事案です。最高裁は、被告人が「自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせた」うえ、被告人を信奉する患者の親族から重篤な患者に対する手当てを全面的に委ねられた立場にあったとして、直ちに患者の生命を維持するために必要な医療措置を受けさせる義務を認め、未必的な殺意をもって放置した被告人に不作為による殺人罪が成立するとしました。判旨は、先行行為についての被告人の帰責性と、被告人による保護の引受けを根拠に作為義務を認めたものと解されます。被告人と患者の間に親族関係も治療の契約もありませんでした。不作為による殺人罪の成立に、行為者と生命の危機に瀕した者との間の親族関係や契約関係は要りません。判旨は、作為義務違反に加えて既発の状態を積極的に利用する意図までは求めていません。判旨が挙げているのは作為義務とその違反、未必的な殺意だけです。なお、殺意のない親族との間では、保護責任者遺棄致死罪の限度で共同正犯になるとされました。

作為義務があっても、その作為が可能で容易でなければ、不真正不作為犯は成立しません
作為可能性とは、義務づけられた作為に出ることが物理的又は心理的に可能であることをいいます。泳げない者に、溺れている者を泳いで助けることを求めることはできません。法は不可能を強いることができないからです。作為可能性がない場合に、不作為犯が成立する余地はありません。可能であるだけでなく、容易であることも必要です。最判昭和33年9月9日は、自ら消火するか宿直員の協力を得れば容易に消火できたことを認定したうえで、不作為による放火罪を認めています。作為可能性は、その作為をしていれば結果を防げたかという結果回避可能性とは別の問題です。助けに行くことはできたが間に合わなかったという場合は、不作為の因果関係が否定されます。
故意は結果の発生を意欲していなくても認められ、不作為による放火に既発の火力を利用する意思は要りません
不真正不作為犯の故意は、作為犯と同じく、犯罪事実の認識と認容で足ります。不真正不作為犯の故意は、結果の発生を積極的に意欲していなくても認められます。シャクティ治療事件も未必的な殺意で殺人罪を認めています。不作為による放火については、大判大正7年12月18日と大判昭和13年3月11日が「既発の火力を利用する意思」に言及していましたが、最判昭和33年9月9日は、残業中に自分の過失で机などを燃やした者が、既発の火力によって建物が焼損することを認容する意思をもって、あえて必要かつ容易な消火措置をとらなかった事案で、放火罪の成立を認めました。不作為による放火罪の成立に、既発の火力を利用する意思は要りません。処罰範囲を絞る役割は作為義務という客観的な要件が担っており、主観面で特別の意思を求める必要がないからです。

不真正不作為犯は殺人罪や放火罪に限られず、詐欺罪や死体遺棄罪にも成立します
判例で不真正不作為犯が問題になるのは殺人罪と放火罪が中心ですが、ほかの罪でも成立します。不真正不作為犯は、殺人罪や放火罪に限らず、財産犯についても成立します。詐欺罪について、大判大正7年7月17日は、一定の事情を告知すべき義務のある者がことさらにこれを黙秘することも欺罔の手段になるとしました。最決平成15年3月12日も、誤った振込みがあったことを知りながら、これを告げずに預金の払戻しを受けた行為に詐欺罪を認めています。自己名義の口座に誤って振り込まれた100万円を自分のものにしようとした事例で、「Aは,この 100 万円を自分のものにしてしまおうと考え,甲銀行乙支店に赴き,その意図を秘して,行員Cに対し,当該預金口座からの 100 万円の払戻しを請求し,Cから 100 万円の交付を受けた。この場合において,AのCに対する詐欺罪は成立しない」という肢(R2 問26 オ)は誤りです。誤った振込みがあったことを告げずに払戻しを請求することが、欺罔行為に当たるからです。不作為犯は、死体遺棄罪についても成立する余地があります。葬祭をする義務のある者が死体を放置した場合には、不作為による死体遺棄罪が成立します(大判大正6年11月24日)。葬祭をする義務のない者が死体を放置しただけでは、殺害した犯人であっても不作為による死体遺棄罪は成立しません。
最決平成17年7月4日(シャクティ治療事件)自己の責めに帰すべき事由により患者の生命に具体的な危険を生じさせた
刑法 第199条(殺人)
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の拘禁刑に処する。
試験ではこう問われる
- 誤って振り込まれた預金を、その意図を秘して払い戻した場合、行員に対する詐欺罪が成立する(最決平成15年3月12日、R2 問26 オ ×)
- 真正不作為犯と不真正不作為犯の違いは、条文が明文で不作為を構成要件として規定しているかにある
- 作為義務は法律上の規定に基づくものに限られず、先行行為についての帰責性や保護の引受けからも認められる(最決平成17年7月4日)
- 作為の可能性と容易性がなければ、不真正不作為犯は成立しない
- 不真正不作為犯の故意は未必の故意で足り、不作為による放火に既発の火力を利用する意思は必要でない(最判昭和33年9月9日)
- 葬祭をする義務のある者が死体を放置すれば、不作為による死体遺棄罪が成立する(大判大正6年11月24日)

